2007年9月24日 (月)

プライドが高い男の子

やんちゃな幼児のだだっこぶり
  2種類の紙トンボがあった。ある4歳くらいの男の子がそれらの紙トンボを飛ばした。1種類の方がうまく飛ばなかった。もう一度やったが失敗した。だから、彼はもう試すのを嫌がった。それを見てある人が、
「結構、プライドが高いねんね。」
とほほえみながら言った。
  私は直感的に違う!と思った。彼はイヤと素直に自分のありのままの気持ちを表したにすぎない。彼の意見表明だ。誇り高い自分ありたいと思ったわけでない。失敗して自分の気持ちが傷つけられると思ったわけでないと思った。でもよく世間でそのように使われる。その根底にはプライドが高いのはいけないという日本人のいましめのような気持ちがこもっている。またそのように決めつける大人の言葉が子どもの心を傷つけると思った。

 では私はどんな風に対応したでしょうか?
  私は自分の思いを口にし、ありのままの自分である彼がいとおしくておかしくてたまらなかった。この講座に来た頃は赤いキャラクターの顔の輪郭線がうまくつながらなくて、むしろ赤ちゃんに近い方だった。1年経つと目鼻立ちがわかる顔を描けるようになっている。今、イヤと自分の思いを素直さに出すしぐさは笑いを誘わずにおられない。ここに彼が、ありのままの自分を出せるのはそれを受け止めてくれる大人達、私やお母さんを含めスタッフがいるからでしょう。現に彼がやる気になるまで待っている講師さんがいるからです。
   以前、商店街で父親にだっこされ、彼は父親に頬を寄せ安心してスキンシップを楽しんでいる姿を見たことがある。彼の母親は寄り添うように信頼して一緒に歩いていた。母親がいつも彼に指示的な口調で話しかけないのは、きっとそこからきているのだと思った。ありのままの自分を出している彼をかわいいと思うのは、十分に両親にありのままを愛されているからでしょう。

 ありのままの自分を受けいれてくれる人間関係があることが、自律的・社会的主体としてきちんと成長発達する保障をするのに不可欠です。泣いたり悪さをしたりといったさまざまな行動に対して無条件かつ継続的に、今日の彼の意見表明には「うまく飛ばないのだね。いやだね。」と肯定的にかつ誠実に対応してくれる親や大人との関係がいるのです。私は彼が興味を持ったおもちゃと一緒に遊びました。彼が自分の心と折り合いをつけるのを待つのも大事です。その後講師さんの呼びかけに彼は苦手な方の紙飛行機も作りました。そういう体験を十分にして子どもは「ここにいていいんだ。」「自分は大切なんだ。」という安心感や自己肯定感を持てるようになり、自分を誇りに思えるようになると思います。十分にそのような体験をした人は他人の心に共感できる大人になるのです。それをまだ幼い彼にプライドが高いので傷つくことを避けていると思うことは、大人の勝手な解釈だと私は思うのです。

「プライド」が高いのは、いけない?
 「プライド」って何だろう。私はインターネットで調べてみたが納得いくものがなかった。英語の辞書の「自尊心」を引いてみた。二つあった。一つにはセルフーリスペクトself-respect「自分を尊敬する」という直訳になる。自己肯定感に似ていると思った。もう一つは、プライドpride で「自慢する」「誇りにする」という意味です。誇りは自己肯定感も含むと思った。
  つまり「自尊心」にはselfーrespect という「自分を尊敬する心」(自尊心に似た意味)の意味とprideという「自慢する、誇り」という意味があるのです。おそらく人権という歴史からいって、人は生まれながらに基本的人権があり、「自尊心」が基本になっている欧米の歴史と、世間に合わせる没自我の日本の文化の違いが、「自尊心」をpride、自慢すると否定的イメージの方に定着させていったのでないかと思います。きちんとしたことを知っている人、教えてください。

  良きにつけ悪しきにつけ没自我で生きられた封建制の残った日本の地域社会の人々は、今日、成果主義の市場主義社会のなかで、「個」が直接社会にさらされるようになったと思います。これに対応する人格を育てる環境は遅れています。一方で自尊心=プライドが高いことは自己主張し、自慢し他人のことを考えない悪いという日本文化があり、一方で競争と選別の教育環境があり、親の価値観に合わせている子ども達は、ありのままの自分でいられません。自己肯定感も自我も確立できないでいる実際ではないでしょうか。
  欧米の文化では、幼少から自我の確立のため自分の意見をきちんと述べることが大事にされると言います。アメリカに夫とともに赴任した同級生が、向こうの方に意見を求められて意見を述べると、
「それは一般的な考えでしょう。あなたの意見を述べてください。」
と言われて当惑したと言いました。これは子どもだけでなく日本の大人が、自立した個でないことが多いということにつながると私は思います。

  本来、プライドは高いということは、他人と共感する心を持ち合わせている上に成り立っていて、十分自己肯定感を持ち、自分を誇りに思っているとてもいいことだと思うのです。そしてそれは人間関係の中で育てられるものだと思うのです。

 言った人の本意と違うことを感じてかもしれないけれど、何気ない会話のなかに人権がひそんでいると思った日でした。  K子

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2007年8月22日 (水)

熱中症

 地球温暖化が誰の目にもはっきりみえるくらいになった日々です。酷暑日という35度Cを越える暑さのため「熱中症」になったり、そのために亡くなる人も出る今日この頃です。40度C を超える暑さは驚きですが、それも普通になってしまうのでしょうか?最近の熱中症という言葉を聞くたびに私も熱中症になって一つ違えば亡くなったかもしれないあの日を思い出します。私は、偶然に水をたっぷり飲んだことによって救われました。   

 もう25年になるでしょうか。5・6年生の野外学習としてキャンプがダムで行われました。そこに私は担任でなく付き添いとして参加しました。バスに乗って現地近くまで行き、後はダムのキャンプ場まで一本道で車も通らない安全な道なので、子ども達を歩いて現地に向かわせることになりました。
 でも先生達は、救急用や物資を運ぶための車に乗せてもらって行かれました。何往復かで全部の先生が車で先に現地に到着しました。私は担任もその車に乗って行ったことに腹が立ちました。私が担任なら、子どもと苦しみをともにしたいというのが、自然な気持です。そこで私は歩くことにしました。夏であるので私は日に焼けないように長袖の服を着用し、手袋をつけ帽子をすっぽりかぶり、おまけにタオルか何かを首の回りに巻いていたような気がします。つまり、日に当たる部分が少ない代わりに熱がこもる格好だったような気がする。

 子ども達と会話を交わしながら2時間ぐらいの道のりだっただろうか。
自覚症状はなかったが、ふっと意識がとぎれるような気がしたと思う。喉が渇いたという自覚もなかったのは確かです。ふと見ると目の前に自然の水飲み場があった。そこで子ども達が水を飲んでいました。私も水がほしいと思わなかったが、飲んだ。そこで生き返ったような意識がしたのを思い出す。長い間、そこにいた。現地はそこからすぐだった。
  それからが、なんだか変。その日はしんどくてボーっとしていました。なぜだろうかなとその時は思いました。今から考えるとこれが熱中症だったのは確実です。そして偶然に水のみ場があって子どもにつられて飲んだから助かったのだと、この頃になってぞっとします。テレビの報道を見てるたびに思います。もちろん熱中症という言葉も症状も知っていましたが、まさか自分の状態がそうだという自覚がなかったですし、また今日ほど身近な出来事でなかった時代の話です。 K子

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2007年8月15日 (水)

セミの鳴き声

 「シャー、シャー。」と暑苦しく鳴くせみ。
 私はセミの種類の名前に通じていないので鳴き声だけの話をします。
 ある男の人と話をしていた時、
「このごろ、地球温暖化のせいで、シャー、シャー、シャブー、と鳴くクマゼミが多くなった。昔はあのせみは少なく、ジジジー、ジジジジーと鳴くアブラゼミが大勢を占めていた。」
とおっしゃる。そこで気をつけて聞いてみると、私の周りは朝から「シャー、シャー、シャブー」とうるさい。そう言えば、私の子ども時代、昼寝の耳に「ジー、ジー」と油で照りつけるようなセミの声が耳に残っている。あれを聞くだけで暑さがいっそう増幅させられたようだった。マンガにもセミ取りをしている子どもの相手のセミはこんな声だった。
 以来、あちこちでセミの声に耳を傾けてみるが、「ジジジー、ジジジジジー」と鳴くセミの声に出会わない。
 ところが、山へ出かけた時である。里は32℃、ここは28℃。あたりはあの「ジジジジー、ジジジジー。」と鳴くセミの声ばかりです。
 「えっ、そうするとここは、私の子ども時代の気温?」
 とたんに昔は暑く感じていても今となれば、こんなに涼しいのだ、と発見したようなうれしさでワクワクしてきた。そこへ、「カナカナカナ。」と夏の終わりを告げるセミの声が聞こえた。そうなんだ、ここは夏休みの終わりの気温なのだ。
 もう50年も前の昔の子どもだった私は、このセミの声を聞くたびに「夏休みは終わりなのだ、今年も宿題をはやくやり終えることができなかった。」と悔やむ。毎年、夏休みの初めの計画では勢いづいてやるのだけど、いつも同じ繰り返し。切ない小学校時代の思い出がよみがえってきた。 K子

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2007年8月 6日 (月)

憲法って何?

1,憲法は唯一、国民が国に課した法律です。憲法を守るのは国民でなく国です。
 ジャーナリストの大谷昭宏氏の講演を聞いた。静かだけどしっかりと心に響く講演だった。「憲法は唯一、国民が国に課した法律である」と言う氏の言葉に衝撃を受けた。普通の法律を国民は守らなければならないのは当然ですが憲法は違うのです。そして憲法は、国民は「こういう生き方をしたい」と国にはっきりと宣言したというのです。私は、学校教育や社会で憲法はこのようなものだと教えられたことがなかった。きっとみなさんもそうでしょう?
 その根拠は憲法【第99条憲法尊重擁護の義務】があり、この憲法を尊重擁護しなければならない義務を負うのは天皇、国会議員裁判官その他の公務員であり・・・と記されているのです。だから憲法を変えようと国会議員が言い出すのは憲法上からおかしいのだそうです。でも私達は肝心の所を知らない。つくづくいかに字面だけを追って書いてある意味を読みとっていないかを知った講演会でした。氏は続けて、国民である私達は憲法で3つの生き方を宣言していると言っている。
 どういう生き方を私たちの先輩国民は宣言したのでしょうか?
2,日本の憲法は、国民の3つの生き方を宣言している

     1、主権在民

     2、平和主義

     3、平等主義

               という、3つです 。

1、主権在民
 主権は国民にあるが大勢では国の運営はできないので、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、国民の代表者がこれを行使し、その福祉は国民が享受する。これは人類普遍の原理である。基本的人権があり、国にアーしろ、コーしろと言われる筋合いはないという生き方です。そうすると「愛国心」を謳う新しい教育基本法は憲法違反になりそう。
 今回の参議院選挙で自民党は大敗した。国民の審判は自民党のやり方にノーをくだした。それなのに「国民の皆様に私のいうことがよくわかってもらえてないから続投します。」というのは、主権在民と議会制民主主義からみて変。正当な選挙が行われたから、辞任するか、自分の政策を変換するのが当然ではないでしょうか。
憲法?あわてて変えなくてもいいじゃないかというのが民意のようです。安部さんがよくわかってもらえてないとこだわるその真意は何なのでしょうか?みなさん、あきらめずに、民意を示し続けましょうよ。私達は主権在民という生き方を憲法で宣言したからです。それがよくわかった講演会でした。
2,平和主義
 「憲法9条の戦争の放棄」は中学校の社会の先生に教わった。米ソの冷戦状態で核開発の先陣競争しており、広島や長崎など問題外の大きさの核であることを話されたのを覚えている。9条の大切さが何となくわかった授業であった。
 前文で「恒久の平和を念願し、私達は平和を維持し、・・・全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利があることをしっかりと認める。」と私たちの先輩国民は宣言している。そしていわゆる憲法【9条】で一切の武器も永久に持たないと宣言しています。
憲法第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。
イラクで一発の銃声もうつことができなかったのはこのせいであり、戦後62年、日本人は世界のどことも戦争をしに出かけて人を殺さなかったのもこの憲法のせいです。それは小泉さんも言っていましたネ。世界の若者が羨ましがる9条です。
 軍は国際協力のためにある程度必要かもしれないが、今回安部さんが改悪しようという目的は、大谷さんの話では日米同盟を結んでいるため、アメリカの戦争を応援するために9条を変えるしかないという。でも世界中で戦争をばらまいているアメリカの応援をして日本が得することはない。自衛隊はやはり水害など救援用として働いてほしいものです。アメリカはアルカイダーを1ヶ月で、イラクは3ケ月でと言っていたのに、やはり武力で抑えるのは無理ですね。時代遅れですよ。世界は武力を使わない方向に進んでいるのです。
 そして格差社会を生む不平等な社会が戦争のために必要なことがわかった。そのわけを次に話します。
3,平等主義
 憲法【第25条生存権、国の社会的使命】があり、すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
②国は、すべての生活面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
 70年代、社会保障が進んで、日本から貧困がなくなったと言われた時代があったのに、オイルショック、続いてバブルはじけ「構造改革」と小泉さんが叫ぶようになり、今は貧困の格差が目に見えるようになった。新自由主義と呼ばれる、大企業に都合のよい規制緩和、成果主義はインターネット難民、医療難民と呼ばれる人々を生み出していった。このインターネット難民のようなワーキングプアと呼ばれる人々こそが、戦争に行く餌食になるということだ。「戦争に行ったらたくさんの給料をあげますよ。帰還しても仕事も保障しますよ。」などの甘い言葉で誘う。NHK放映でも「派遣の仕事で物のように扱われるよりはマシ。平和は地獄」と言っていた日本の若者がいた。しかし現実はそんなものでない。戦争は「死」と引き替えであり、帰還兵の多くは心的後ストレス障害というトラウマで苦しんでいる。人間性が破壊されて社会生活ができなくなってしまう。このような貧しい若者が犠牲になるような社会を私達は許してはいけないと思った。平和がいい。徴兵制のためお国のために命を惜しまない教育なんて結構。結構と言えない社会にしていく「共謀罪」という法律が5回も上程されて流れたそうです。すでに愛国心を教える教育法ができました。先人の誓いを私たちは知らなすぎたと思いました。今からでも波よ広げれ、憲法9条!

  ジャーナリスト大谷昭宏氏の講演『波よ広がれ!憲法9条を日本から世界へ』講演より  K子

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2007年7月23日 (月)

一生懸命に働いてきた者が報われるように・・・

 まじめに一生懸命に暮らしてきたのに今、私達は生活の不安でいっぱいです。「生活は政治と結びついている」というのであるけれど、ふだんの私達は国会がどっち向いているのかピンときません。そこで年金の歴史を調べてみました。

  1、社会保障と国の行政の責任

  日本の年金の歴史は浅く、皆保険の制度が導入されたのは1962年ごろだから、今65歳ぐらいの人が二十歳になった頃始まりました。年金制度導入の契機は、国民の生存権の増進を努める国の役目のためで
 憲法25条に【生存権、国の社会的使命】すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
 ②国は、すべての生活面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
 にあり、この②の国が考えた制度が皆年金で、「老人の生活を働いている世代が支える」という助け合いの発想で始まりました。また、働いている人達は将来老後のための積み立てという年金制度となります。

 皆年金には三つの種類があります。
1,共済年金・・・
  国家公務員や地方公務員の年金で、管理は共済組合で独自にしている。掛け金は非常に
高く、給料から天引きされる。雇い主の国や県が半分負担している。かって国鉄の労働者もそうでした。
2,厚生年金・・・
  会社で働いている人達が入る年金。給料から天引き。雇い主の企業が半分負担し、国は25条の観点から働いていない妻の国民年金も負担する。しかし国や自治体に治めない企業主があったようで、今「治めたはず・・・」という問題にもなっているのがある。会社はこのお金を払うのがイヤで非正規雇用が今、大変増えています。給料が少なく普通のマンションは入られないし、国民年金も払えないという若い人達のネットカフェ難民というのを生んでいます。結婚できない給料で一家庭がもつ子どもの数は1.57ショックと言われ、少子化の大きな原因とも言われています。
3,国民年金・・・
  上記以外の自営業者や店舗の人や医者など夫婦が入る。自分で治めに行く。導入された頃掛け金は安いが将来もらえる金額も少ないため、たくさんもうけている人で定年がなく働ける人は、治めても得することがないと治めない人も多かったそうだ。
  憲法25条健康で文化的な最低生活を保持するために発足したにもかかわらず、現在でも満額でももらえる額はわずかで、介護保険の天引きや医療費も高くなりさらにもらえる額は減っている。若者の就労も不安定で国民年金さえ納めることができない層が増え、貧富の格差をうめるものになっていない。国がもっと生活できる最低の金額保障し掛け金と併せてもらえるような制度にしてこそ、憲法25条への国の責任は果たされると思います。満額25年は長いです。

2,国の無責任な年金保管の態度
  年金問題の起こりは地方自治体に治めた時期もあって、年金番号が複数になった。それを統一した年金番号にしようと管さんの時に決まり、小泉さんの時から実施された。これが誰の記録がわからない今の宙に浮いた年金騒動の始まりです。パソコン入力の際の名前の間違いや年金の種類が変わった人、結婚して姓が変わった人、転居した人、会社を辞めて国民年金に変わった人など払っているにもかかわらず、継続の記録がないのが判明しました。宙に浮いたのと照合するのは大変です。
  また日本国中の国民のお金を長期に渡って預かるため国の乱用も生まれる。預かっている年金を運用するという法律をつくり、「グリンピア」のような施設をたくさん作った。しかし儲からないため、ただのような値段で売りに出したというのをたまたま夕方のテレビ報道で知った。株に流用してもよいという法律もつくられました。いま、少子化を口実に将来の年金がないので支払いの値上げが言われているが、それより年金の保留分を使い込まれた国民年金のみなさんへの補償どうなるのかしら。みなさん、知っておられる?

3,もう一度、国民のための政治を取り戻しましょう
  1973年(昭和48年)が福祉元年と言われ、この年に「老人医療無料化」が実現した。日本は高度経済成長で経済大国に発展していきました。一方、世の中は公害反対の運動がさかんでした。東京(美濃部知事)、京都(蜷川知事)、大阪(黒田知事)など府民のことを考えた政治の波が高揚していた時期と重なります。国の社会保障費も増え、日本から貧困はなくなった、一億オールホワイトカラーと言われた時代です。年金生活では苦しかろうと老齢加算というお金ももらえました。昨年だったか廃止されましたネ。
オイルショック後福祉はどんどん後退していきました。この経済大国の日本に「餓死」という新聞報道もされるようになりました。ある教師の「この日本に発達途上国のような貧しい子ども達がいるのにびっくりする。」という告発もあります。
  また皆年金が作られた頃に比べ、長生きする老人が非常に増えました。国は補助のお金を減らし続け老人医療費はすでに無料ではありません。もっと老人の医療費を減らそうと「後期老齢者医療制度」が強行採決され、来年4月から施行されます。75歳になると扶養家族から独立して老人本人の年金天引きで医療年金のお金をむしりとられます。
  新聞のひととき欄に特別養護老人ホームに母を見舞った時の様子が掲載されていました。・・・母は「行き過ぎたのう。」とぽつりと言って肩を振るわせて泣いた。・・・。長生きはめでたいことなのに、老後もお金しだいなんて悲しいです。尊厳を否定されるようです。
国はひとときでも憲法の趣旨を行おうとした時代もあった。今は新自由主義と言って国民のためにならない政治が行われています。小泉さんが「構造改革」と叫んでいたのはそれだったのです。私達は十分考えて大切な一票を使いましょう。たかが一票、されど一票です。  K子

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2007年7月 6日 (金)

乳幼児は、母親の心を読みとることができる

   日曜日、毎日テレビの「動物奇想天外」が意外に面白い。いつも自然界の動物達が自然に調和し、また過酷さに耐えて生き抜く姿に感動させられる。そんな動物達の環境を簡単に壊すのが人間であるのにいつも愕然とさせられる。
   ある日、人間の子どもとチンパンジーの違いを見せつけられた面白い実験が二つあった。

《渡れない橋でも、お母さんの顔つきをみて渡る1歳の赤ちゃん》
   一つ目、人間の1歳くらいの乳幼児は、大人の心を読みとる能力を持っていることを示す実験であった。実験の場の設定はある二つの高い床があり、それを透明なアクリルの板でブリッジにして渡れるようにしてある。透明であるけれども少し大きい3歳児ぐらいになると渡れるとわかるようなつくりである。
   ハイハイができる赤ちゃんを一方の床の上に置く。一方お母さんは乳児からみて渡った橋の向こうの床にいる。お母さんのいる所へ行こうと赤ちゃんは、透明になっている橋のそばまで行く。でもブリッジは透明なので渡れないと思い、止まります。赤ちゃんはお母さんの顔を見る。お母さんが心配そうな顔をすると渡らない。大丈夫、渡れると笑顔を見せると渡れると判断するのです。それに比べてチンパンジーの子は自分で確かめて渡る。生まれて同じくらいの年齢の赤ちゃんはチンパンジーの方が賢いのです。これは自然界に住んでいるため、人間より早く自立して危険を察知しなければならないためこの時期としては人間の子よりも発達が早いそうです。納得しました。

《赤ちゃんの成長には、お母さんへの無条件の安心と信頼が必要》
   この実験は、1歳ぐらいまでの人間の赤ちゃんでもお母さんの表情から心を読みとることができる、賢いという実験である。私はそこに赤ちゃんの無条件のお母さんへの信頼を見た思いがしました。このような高度な精神行動を発揮できる根底には、お母さんに絶対的な信頼をおかなければできません。赤ちゃんも知らない大人なら渡らないでしょう。つまり人間の赤ちゃんは生まれながらに社会性を持った存在であるし、無条件に信頼できる・安心できるお母さんという場の占める割合が大きいということを証明しています。人間の乳幼児は、無条件に信頼・安心のもとで母親の顔色から、「いけないこと」「よいこと」を学ぶ高度なコミュニケーション能力を持っていることです。
   これは3歳までは言葉が通じないのでたたいて体で教え込まなければわからないのでなく、かわりにお母さんの悲しそうな顔、怖い顔、そして言葉のトーンで「いけないこと」を、また優しい顔などで「いいこと」を伝えられるということです。無条件に安心・信頼のお母さんの腕のなかで、いたずらや失敗を重ねてゆっくりと自分の個を成長させていくのです。
   それには、コロコロお母さんの態度が変わってしまうと赤ちゃんはとまどってしまう。また子どもを傷つけるような言葉づかいも赤ちゃんを傷つける。そのような態度は人間を信頼できない子どもに育つ危険もある。だからまわりの人達がゆったりとできるようにお母さんを支援することが大切と思います。また早期教育という子どもにとってよかれと思う親の学歴の押しつけが、自分の要求を抑えゆがめられ信頼・安心の心でなく、少年事件に発展することはありうるということです。

《乳幼児期の安心・信頼は人間観を左右する》
   
間としての特性である対象は生母とは限らない。それに代わる絶対的に安心・信頼を託せる人が赤ちゃんにとって必要ということであると思います。
   カウンセリングの学習のなかでこのような関係がうまくできなかった人が社会生活でコミュニケーションがとりにくい人格に育っていくことも学んだが、それが今回この実験で裏付けられたと思いました。

《赤ちゃんは2歳までは本物との区別がつかない》
 
もう一つ、実験があった。2歳ぐらいまで人間の赤ちゃんは、本物と実物の区別がつかないという実験です。
赤ちゃんでも座れない小さい椅子に自分が座れるかどうか、わからないで座ってしまう。写真の靴でも履かれると思ってしまうという実験でした。
   この実験の後の解説が、「人間の2歳までの赤ちゃんにとって実体験が大切」と述べていました。赤ちゃんにとって小さい失敗が大切ということでしょうネ。もちろん同じぐらいの年令のチンパンジーの子どもはちゃんと区別がつきます。   K子

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2007年6月12日 (火)

子どもの絵画を大人がどう読むか!

  子ども達と手作りおもちゃを通じて触れ合うボランティアをしている

  最近、1年生の男子が3人連れだってきた。今日はビニールの落下傘を作るのである。まず、無色のビニールにマジックで絵を描く。ところがそのうちの1人がいきなり「骸骨」を書き出した。次に「骨」「肝臓」など体の中のものを続けて書き出した。それを見てあるお母さんが「気持ち悪い~」と言われた。たぶん変な子だという意識も働いている気がした。私もこの子はなぜこんなのに興味を持っているのかなと思った。ふとみると手首からひじにかけて包帯で巻いている。「あ、骨折かなにかしたから、骨に意識がいっているのだな」と感じた。それで、
「この手どうしたん?」と聞くと
「ひび、いってっるねん。」
と言った。それで納得して、
「骨、ヒビいったから骨に興味があるんやな。」
と言うと
「うん。」と言った。そのやりとりでお母さんもその奇異な絵に納得された。
   私は心理学で「絵画療法」という単位の研修学習したことがある。それでわかったのだけど、テレビで心理学の先生がある人の描いた絵をみて「あーだ、こーだ」と言っているがそれは、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と同じだということです。そのわけは、人間は興味や意識がいっているものを描く。だけど、それは今の心理の一部である。だから誰にも当てはまるような一面を述べているにすぎない。
  本当にわかるのは、生活の一連の事実を追っていってこそ絵から心理がわかるということです。生活の一部始終を長時間かけてみているとその子の考えている心理傾向が絵に現れる。その人の背後の生活からの心理が見えてくる。時には、絵に現れた「SOS」というサインかもしれない。
  今日の男の子はちょっと見ると奇異な絵に映るでしょう。だけど彼は骨にヒビがはいる痛い目にあったから心に染みついて絵に出てしまったのです。そう思うと奇異な絵も納得がいく。

   母親の頭部を切断した少年事件があった。中高一貫校で猛勉強している。弟と親元を離れて生活している。だけど母親はきっちり世話をしに通っていて放任ではない。むしろ働きながら勉強のためにきっちりと世話を焼いている。
   新聞記事でしかわからないが、彼はふだんからホラー的なものに惹かれ、そのような絵も描いていたという。一見、彼の事件と関係ないが彼の深い思いがそこに込められている。それに気づいてどうしてそんな絵に心を惹かれるのかと寄り添ってやる大人がいれば、今回のことは防ぐことができたかもしれない。「成績」という押しつけられた学力にのみの息苦しさが彼を異常な心理に追いやったのかもしれないと思いながら事件の記事を思い出しました。   K子

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2007年5月15日 (火)

「平和は絶望、戦争は希望」という青年の思い

《「平和は絶望、戦争は希望」という青年》
   昔、選挙の時投票率があがらないように「できるだけ国民は寝ていてくれた方がよい。」と言った首相がいたっけ。
   5月14日、今回の国民投票法案も無関心層が、寝ていてくれることを想定に国会で成立した。成立してしまえば確実に3年後に改憲に向けて発議が提出され、国民が意思を表明する「国民投票」が行われることになる。今の憲法には国民が主権で国民が決める権利があると書かれているが私達自身その実感はない。それをいいことに手続き法の整備案は改憲案を通しやすくするための内容で、無関心層が多く、国民は何も知らないだろうという前提で作られていると言われています。「国民投票」までに具体的には憲法審査会が作られ決められるそうだ。
   なぜ憲法を変えるのか、どこを変えるのか多くの国民がわからないのに、なぜ改憲のための手続きをいそぐのでしょうか。これから3年先に向けて私達は今の憲法がどんなもので、どこを変えようとしているのか、そして生活はどう変わるのか知ることが大事と思います。
   でも平和であっても食べられないという状態がどんどん進んでいる日本です。新自由主義という政策で国が福祉からどんどん手を引いて、大企業に有利な政策がどんどん進められている。すべての国民の生活は苦しくなる。そうなると戦争を望む青年をも生むことになります。NHK「クローズアップ現在」ではそのような青年を映し出していました。
NHKテレビ7日「クローズアップ現在」では九条を語れ~平和憲法の現在と憲法の思いをとりあげていました。しかし、「フリーターでは生活できないが、戦争に行って今より、あるいは自衛隊員より給料がもらえるなら戦争を選びたい。」という青年の言葉に心が痛みました。アメリカがすでにそうだそうです。

《異常な働かせられ方の青年と国策》
   今の青年の働かせられ方は 17日新聞報道でも
「心の病」労災 最多 30代突出 長時間労働、成果主義
   と見出しが踊っていました。非正規社員として戦争のほうが給料をもらえて生活ができると思ってしまうほど無法・違法なみじめで絶望的な生活なのです。もっと人間らしい誇りあるくらしをしたい、今を抜け出すには、戦争に行くしかないと思わせてしまうほどです。戦争は人を殺すこと、殺された家族のこと、自分もまた傷つくなどの想像力はそこに浮かんでこないのです。戦争のない平和な今のくらしは絶望、戦争はわからないから希望に見えるのです。
   戦争に駆り出されるのは、格差社会という生存競争の戦場で負けたそのような青年です。よい大学にいかれないでエリートになれなかった青年達を吸収していくという現実になっていくのです。すでにどの子も学力を保障するという旧の教育基本法は昨年の12月変えられました。教育再生法案に「愛国心」の涵養という言葉が入りました。進んでお国のために命を捧げる昔の日本の青年を作り出す教育方針が用意されています。そして靖国神社に祭られることを名誉とし、「愛国心」というお国のために命を捧げるという教育が用意されています。国策としてできない子の不満は国のために役立つという方向にすり変えるという政府の考えでしょう。昔の日本をイメージして時代錯誤でまさかと思います本気のようです。新聞報道によると「君が代 歌唱チェック 和歌山県教委、小中学校で」と現場は動き出しています。

《青年と国民の連帯意識へ》
   福祉から手を引き生活の困難さは老人や子育て世代も襲います。年金生活者である私達から直接に先に税金や国民保険料を値上げして差し引いておくという卑怯なことが決まったそうです。75歳以上から保険料(月平均)6,200円!!になる。後期高齢者医療制度が変わって来年4月から開始されるそうです。今関係なくても将来の自分に関わってきます。所得税の定率減税も1月に全廃され、6月には定率減税による住民税の大増税があります。国民年金保険料の引き上げは4月から上がりは選挙が終って08年度に消費税を引き上げる法案提出予定だそうです。国民は反対でも国民のことを考えない国会議員によって、数の力で国民の願いと反対の法案がどんどん決められていきます。
   青年、年寄り、子育て世代も国民みんなの暮らしはますます悪くなっています。弱い者いじめへの気運が強くなっている日本に、戦争によって解決しようという気運は戦前の悲劇になります。知性の力を持ちましょう。生活できないのには原因があります。国民の知恵をあわせてみんなの問題として考えてみませんか

《改憲の目玉は、アメリカとともに戦争する国にすること》
   戦争の実際はアメリカとともに戦争をすることです。だから60歳の憲法を変える目玉は、安部首相が宣言したように9条の2項の廃止です。憲法9条を調べてみました。

第二章 戦争の放棄
   第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

   すでに自衛隊がある。けれど、憲法で武力による威嚇を放棄しているためイラク戦争でも一発の鉄砲も打たず、また戦後60年、日本の若者は1人たりとも世界の戦争に出陣して死ぬという事はありませんでした。小泉元首相も言っていましたネ。これは世界がうらやましがることだそうです。
  それを政府は自衛隊が世界で戦争することができるように変えたいそうです。国民が要求したものでなく、アメリカの要請に答えたのが改憲動機です。この際、集団的自衛権という言葉が使われますネ。それを調べてみました。

《集団的自衛権とは》
   集団的自衛権とは
   自国は武力攻撃を受けないが、自国と密接な連帯関係にある国が武力攻撃を受けた場合、その武力攻撃を自国の安全を脅かすものとして、攻撃された国を援助してともに防衛にあたる権利。   (広辞苑 三省堂より)

    日本とアメリカは日米安全保障条約を結んでいるので、集団的自衛権を行使できるはずです。でもそれを行使できないのは、日本の憲法の②項があるからです。現在、世界の戦争のもとを作り出してアメリカは大忙しいですから、アメリカは日本に回りきれない所を闘ってほしいのです。そういう要請のもとに改憲に踏み切ったのが今回の改憲手続き法案なのです。過去にも変えるように要請されていたけれど、日本国民が許さなかったようです。調べてみると、1950年代に一度改憲の話が出たようです。でもその頃は私の親の世代です、戦争の被害をまともに受けていますから世論の猛反対にあって実現しなかったそうです。
   私は中学の社会の先生が授業中、一生懸命に第9条の話をしてくださったのを覚えています。直接、戦争の記憶はなく9条のよさの実感はなくても今、こんな世の中になってあの時の先生の思いが蘇ってきます。それがもし愛国心を教えてもらっていたら、その時実感がなくても、そんな世の中になったらいいことだと思うかもしれません。その点で教育は大切を思います。

《改憲、問われる一人ひとりの自覚的な意思》
 
もし、改憲されたとしたら自衛隊に入る人が少なくなる可能性があります。なぜなら戦争するために入隊したのでなく、自衛のためが目的であるし、自衛隊は資格をとるのにいろいろな特権があり、それがめあての人や身体をきたえるための人もあるからです。そうなると徴兵制となります。今、私達に直接関係ないかもしれない。でも孫の世代が戦争に行くことになる将来への責任は、仕事の現役を退いた人も含めて大人達にあるのです。
日本では今のところ戦争しなければならない緊急性はありません。あるとしたら、今世界で戦争をしかけているのはアメリカとともに戦争することだけです。そんな戦争はいやです。
   将来ある子ども達の未来を奪うことになる改憲を決めるのは、大人ですから大人の責任が問われます。大人の責任は、身の回りのことだけでなく、子ども達が健やかに育つ将来に目を向ける意思も持たなければなりません。ひとり一人が自分の問題なのです。考えて見ませんか。 K子

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2007年4月25日 (水)

「なんで学力テストに反対するの?」

学力テストの裏にある国の想いは、国民の想いと違うのです 
 自分の子どもの「学力」を知りたいのに、なぜ反対なのかと思われるでしょうネ。学力の調査は必要だという人もあるでしょう。また学力テストだけをみていたら、これは私達に関係ないと思われる方もあるでしょうネ。でも必要と思う人も関係ないと思う人も含めて、裏にみんなの思惑を越えることにテストを使おうとする国の流れがあるのです。今でさえ過度な競争教育です。国連からも日本は過度な選別と競争で子どもが発達障害を起こしていると勧告を受けているのですよ。過度な競争は子どもの心を育てません。
 今、憲法を変えて軍隊を持って外国で戦争ができる国にしようと改憲手続き法案が、衆議院を与党だけで強行採決しました。私達の暮らしを含め、日本がどういう国に向かわされているのかとすべての人に関係があるのです。日本では、新自由主義と新保守主義の二つが同時に進行しています。どんな風に私達の暮らしと学力テストと関係があるのでしょうか。

戦後の日本の教育は 大企業の要請の学力偏重教育
  戦後の少しを除いて日本はずっとテストの競争社会でした。ずっと大企業の要請にあった教育でした。私もつらい受験を経験してきました。今も昔も大学の格差があり、高校の格差がいっそうひどくなっています。それを義務教育の小学校からしていこうとしています。なぜ政府はこのようにしていくかは訳があるのです。バブルがはじけて大企業が生き残るためには、企業の終身雇用をやめ、難しいことを考える数パーセントのエリートだけでよい。昔のように誰も学力をつけなくてもよい。今は技術の熟練でなく操作だけでよいから頭を使わなくてもできる、と大企業がいっています。そのための提案がゆとり教育というのでした。そのため日本は世界の学力テストが下がった。学力の低下と人々が騒ぐからそれを世論の動きに合わせて政府はいろいろ改革をしようとしているのです。でも政府は本当に国民みんなの学力を上げる気はないのです。だまされてはいけません。それは私達の暮らしがくらしにくくなっていくことと関係しています。

新自由主義とは
  新自由主義とは弱い立場のある国民をカバーするための規制を緩和し、資金のたくさんある人が得しやすい政策を政府がとることです。構造改革とも言われています。アメリカ生まれの考え方です。公という国が、弱い立場の人たちに福祉という格差がつかないように出していたお金をどんどん削ります。例えば、母子家庭に母子加算や老齢加算の廃止、老人の医療を少なくしてあげるのも国がフォローしてお金を出していました。定額控除などわずかでも国民にとって大切な税金返還でした。しかし国は福祉にお金を出さないで法人税をまけてやる大企業減税、大資本家減税(証券優遇税制)など大企業優遇の制度にしていきつつあります。05年税の負担率、富裕層の所得税負担額が所得3千万円超5千万円以下の層より低くなったとその逆転ぶりが朝日新聞に報道されていました。
  そのため国民保険が払えなくて病院へ行けなくなったり、生活保護を申請してももらえないで餓死したりする人もこの日本で起きるようになりました。70年代から80年、一億総ホワイトカラーと言われたように日本に貧しさがなくなったと言われた時期もありました。でも今は税金を国民のために使う日本でなくなりつつあるのです。そのため格差社会と言われるように貧しい人とセレブと言われる人々が生まれつつあるのです。働いても働いても貧しい「ワーキングプア」という言葉も聞かれるようになりました。「ネットカフェ難民」というものあります。4月からまた国民年金の金額があがります。参議院選が終われば消費税16㌫にあがることが囁かれています。

学力テストを現場の教育の「成果」として使う
  そして「教育」も郵政民営化のように自由な競争のもとにおこうとしています。明治以来、公教育として希なる就学率を誇りました。欧米に追いつき近代戦争のためには国民みんなに読み書き、集団行動が大切でした。それをやめるというのです。学力テストをするのに大手の受験産業に学力テストに96億円もの税金を投入してもうけさせます。学力テストは私達が暮らしにくくなっていくのと同じ根っこにあるのです。
  学力テストという成果でお金を配分し、教師を競争させ市町村の学校に序列をつくり、自由競争だからテストが悪くつぶれる学校があってもいいということです。つぶれる子どもが出ても罰を重くすればよい。もはや憲法にあるような平和的な人格を持った国民を育成する「公としての教育」はないということです。そこが子どもの実力を知りたいという人々の願いとすれ違うところです。それなのに国は矛盾するように教育を手放さないで心を縛っていこうとしています。それが新保守主義といわれるもの、それだけ教育は大切という裏返しだと思います。

日本の新保守主義
  昔、日本は天皇の赤子として命を捧げることが国を守ることだと世界を相手に戦争をしました。この時教育が大変な強制力をもって戦争に向かう国民を養成しました。
   今は、国が教育にお金を出さないのに、心を国のためにと変えていこうとしています。教育3法案で政府は規範が大切と子ども達に愛国心を植えつけるように言っています。「お国のために命を捧げる」という美しい国づくりとも言っています。学校では「心のノート」という愛国心と受けつけるさきがけになるような副読本を数年前から配っています。先どりして愛国心を通知簿につけていた学校もありました。道徳を科目にして評価しようという話も出ています。昔とよく似てきています。すでに憲法の戦争放棄している9条をを変えた暁の用意は進められています。昔とそっくりでないが、昔のように戦争へ進む準備が進められているのです。国が地方にお金を出さないで放るため地方格差が生まれているのに、国が県、市教育委員会に強力な指示命令系統を下す法律も準備されています。大きな視野でみると国が教育を引っぱっていくのは危険であるというのは、歴史が証明しています。
   憲法を変えるための手続き法案が参議院で審議に入っています。憲法を変えて日本がアメリカの傘下のもとに再び武器を持って海外に戦争する国にする憲法改正手続き法案」が新自由主義と同時進行しています。この愛国心は、真の愛国心でなく他国を蔑視し、自国を大変持ち上げ優越感を植えて戦争準備へもっていこうとする考え方です。そうした動きの見え隠れとしてこの頃、よく耳にするのが靖国神社に首相がお参りするだのしないのだの、従軍慰安婦はいたか、いないのです。また日の丸君が代について東京都ではたくさんの教師達が歌わなかったことで罰を受けたとかいう話があります。それが新保守主義と呼ばれているものなのです。

憲法を変える手続き法案と戦争に行くのは、どんな若者?
  そして誰が戦争にいくのでしょうか。学力テストで負け組になった人々を国のために役立つようにし向けるのです。まさにアメリカがそうです。負け組となって戦争に行くのは、貧しい白人や黒人です。間違っても小泉さんの息子の孝太郎君は行きません。昔もそうでした。同時に戦争をするということは「人権」が制限されるということです。普通の人々も不自由に巻き込まれることです。新しい憲法草案を読んでも非常事態という名目で個人の命よりも国の政策が優先されるのが想像されます。テロも起きるでしょう。
  21世紀です。戦争なら殺人も許されるはずがありません。世界の大きな流れは日本が持っている憲法9条です。それなのに逆に戦争をする国にしようとしています。今、国民は戦争を必要としていません。きっと昔も少しずつ法律が変えられて気がついたら戦争に反対したら牢屋行きとなっていたのでしょう。母はどんなことがあっても戦争だけは2度とイヤと言いました。今はそうなる前の綱引き状態でないでしょうか。女優の渡辺えり子さんは「父親が戦争であわや命を落とすところだった。父の友達は家庭を持つ幸せを知ることなく亡くなった。今私があるのは父親が生き残ったからです。だから戦争は反対です。」と述べていたのに感動しました。戦争は命をつなぐことにも関係あるのです。

真の学力とは?
  今の日本の憲法96条に憲法を変える手続きが書いてあります。「憲法の改正には各議員の3ぶんの2以上の賛成で国会がこれを承認し、国民に提案してその承認を経なければならない。憲法には特別の国民投票または国会の定める選挙に際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする」、と書いています。
  でもその過半数が国民のほとんどの人が投票したうちの過半数なのか、例えば20㌫の人々が投票したうちの過半数なのか、そこに書いてありません。それで今、それを決めようとしているのが衆議院を強行された手続き法案というものなのです。それの問題の一つに投票率が少なくてもいいとしていることです。でも憲法って国のあり方を決めるとても大切なものです。それを少数のパーセンテージ確立だけで変えていいのでしょうか。それで反対の運動が起きているのです。憲法を変える手続きを「決めてくれ」と要求したのは国民の側ではありません。政府側からの要求なのです。だから知らない人も多いのです。政府にとって知らない人が多い方がやりやすいことです。みなさん、知っていきましょう。

  昔なら天皇や国王や幕府が法律を自分達の都合のいいように作ることができました。今は、選挙で選ばれた人々が国会で国民の代わりに政治を決めていきます。だから選挙が大事になります。戦前では税金をたくさん納める男子しかありませんでした。自由民権運動の普通選挙運動が起こって男子に権利ができました。でも女子にはありませんでした。それ以前、欧州では革命で命を賭けて国民が国という王権と闘いました。日本はそういう世界の人々の流れにやっと沿うことができたのが戦後です。長い日本の歴史のなかでほんの60数年、国民みんなが自分のための政治を実現してくれる人を選ぶ大事な権利を獲得しました。

  憲法第1条には国民は権利の主体であると書いています。国民は国の主人公だから国民が安心して暮らせるようにおおいに意見を言って行かなければなりません。言わなければ伝わらないのです。
  憲法99条には、憲法尊重擁護の義務というのがあります。そこには国会議員がその義務を負うとなっています。憲法を変えようと国会議員から出る方がおかしいのです。そうでなくて国会議員に私達が暮らしやすいように国の政治をしてもらう権利があり、国会議員はそのために働かなければならないのです。

   学校で覚えたことがすぐはがれるというのが日本の学力です。どんな国にするのか、人間何歳になっても国民ひとり1人が物事を知って賢くなることが問われている。これが学力というものではないでしょうか。   K子

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2007年4月19日 (木)

再開された学力テストの真のねらいは?

再開される学力テスト・個人情報違反の重大な問題が!
   前回に書いたように、国際学習到達度力テストの結果が悪かったことがきっかけで、学力テストが、2007年4月24日全国一斉に小学6年と中学3年に行われることになりました。抽出ではありません。これから毎年行われます。学力テストの実務は民間の受験産業に委託します。NTTデーター(旺文社)とベネッセ(進研ゼミ)です。税金のお金を49億円も払います。問題になっているのがテストに個人名やテストに関係ないと塾に行っているかなど92問の家庭環境調査の質問項目の記入があるようです。塾勧誘の資料として受験産業がのどから手が出るほど欲しい資料が政府の庇護もとに民間企業に渡るということです。個人情報が握られるので憲法違反とも言われています。
   本来なら全国一斉にテストをしないで、担任の教師がテストを採点し、ひとり一人の子どものつまずきを見つけ、そのために再び理解させる手だてを考えるものです。それには教師に放課後、ゆとりを与えなければできません。そうしないのは別のねらいがあるからです。なぜなら教育もまた他の産業と同じく規制緩和をはずし、「新自由主義改革」にしようとしているのです。要するに国鉄や郵政事業と同じく国が金を出さずに競争によって学力もあげていこうとするものです。どの子も力をつけていく「学校の公教育」という使命をはずそうとしているのです。
   義務教育の学校を序列化、大変な競争と格差に学力テストを使う?
それは、どのようにしてそれは遂行されていくのでしょうか。次のようなセットで遂行されます。
   第1に、子ども同士競争意識の涵養のため学力テストを実施するということです。今でさえ日本の子どもは過度の競争のために発達障害を起こしていると国連の子どもの権利条約のDCIから勧告を2度も受けているのに・・です。「切磋琢磨が必要」だって?この国の大臣はどこをみているのでしょう。
   第2に学力テストと学校選択制のツウーセットで、親の学校選択の指標に学力テストを使うというのです。イギリスのサッチャーがやっていた「教育バウチャー(予算配分)制度」導入です。学力テストがよい子どもの学校に補助金が降りる制度を入れようとするものです。その配分の基準としてこれから行われようとしている学力テストを使おうとしているわけなのです。なんとひどいことでしょう。学校間、自治体間も競争させられてしまいます。今まではどんな小さな学校でも最低の基準を満たすべく施設などありました。公のものだからです。それをテストの点が悪かったらやらないというのです。悪い学校は廃校になってしまいます。民間委託に追い込まれるでしょう。まさにお金は出さない小さな政府、どの子も学力をつけていこう、人格の形成という公教育はそこにはありません。
   東京都が先取りでもうすでに3年です。いろいろな弊害が言われています。親は学校を自由に選べて良いように思われますが、基準がパーパーテストだけです。それによって親は選ばなければなりません。どうしても学校への学力への個々バラバラな注文が多くなり教師は汲々しているそうです。東京都ではすでに教師になる学生が少なくなっていると東京の大学の教授が述べていました。また、新入生のない学校も現れたということです。子どものいない地域はゴッドタウンみたいで不審者は出るはで、地域が沈没するようだと地域の人が述べているのをテレビで放映していました。イギリスではすでに見直しがされようとしているのを何で今更、と言いたくなります。
不安定な職業にすることによって、よい教師は生まれるの?
   さらに、国民の教師批判を取り入れ、公教育破壊のセットとして教員評価を新しく導入しました。私達も勤務評定はされていましたが、組合などの運動により実質評価は生きていませんでした。それを新たに効果あるものにする評定が導入されました。今の給料全体を増やさないで多い少ないと差をつけます。
   10年ごとに免許更新制も言われています。教師という仕事も10年度の更新のために途中でリストラにあうような不安定な職業になります。さらに人格の形成者として使命に燃えたことをしても上司に評価されないとだめです。結局上司である校長などの顔色を伺うことになります。教師になるのはいやだという学生も多くなるでしょう。よい人材が集まり育つはずがありません。国民が願った「悪い教師」を首にすることはこんな形で実現してしまいます。
   教育は「商品」でそれを扱うのが教師で、顧客は「親」で投資した子どもへの見返りが「学校がつぶれる」では割があいませんネ。教育に市場至上主義は合いません。学力テストでよい点をとるという「成果」を競わさせられる教師は、崇高な使命を持っていた前の教育基本法とまるで違う仕事になってしまいました。教育は内容を教えるだけでなく、子どもとのコミュニケーションで人格形成にとってとても大切なものなのです。商品化は人間の内面を大切にしないものです。
国の新たな教育統制
   お金は出さないのに、第3のねらいとしてこの際、国・文部科学省による教育の管理と統制の新たな仕組みを確立します。国が計画(プランP)→実行(ドウD)→点検・評価(チェックC)→改善(アクションA)を握ることで、少ない予算で強力に管理するのです。学力テストは点検・評価に当たります。PDCAサイクルと呼ばれる仕組みを作りました。各学校での地域に根ざした独自の取り組みなど入る余地はありません。私は校長をしていた友達がいるので、どれだけ校長達が教育委員会などのロボットとして身を粉にして一言一句違わないように身をすり減らしているかがよくわかります。だからこのような仕組みが新たに作られたら校長になる人も少なくなるのではないかと思います。現に先取りが行われている東京都はそうであるそうです。国は地方分権と言って金を出さないのに、教育だけ微々に渡って統制するのはわけがありそうですね。
   つまり政府が行おうとしている学力テストは子どもの学力を伸ばすためのものではありません。国際競争にうち勝つ3㌫の優秀な人材さえ確保できたらいいのです。ほかの子どもは国に命を捧げる実直な心をもっていてくれたらいいのです。「愛国心」を評価するということが教育再生会議で言われています。先取りですでに全国で評価させている通知簿がありましたネ。政府というお国のためにのみ命を捧げる「愛国心」は大事です。アメリカさんの「つっつき」がひどいのでね、それで今回特に憲法第9条を変えて戦争をする国にしようという話が進んでいるのですよ。最近私は政府というものは、何かのきっかけでこじつけて私達が願う内容と違うものに変えていくものだなあ、とつくづく思っている次第です。教育が大事だからこそ国は規制緩和しても、国のいうように動く人間づくりをねらっているのです。
日本の旧教育基本法を手本に、学力世界一はフィンランド
  ちなみに全体的に上位だったのはフィンランド。読解力と科学で1位。韓国とともに四分野すべてで1位グループに入りました。フィンランドは日本で言うような意味での受験のための教育熱心な国ではない。注目すべきはこのフィンランドは1990年代に日本の教育学者を招き、日本の旧「教育基本法」の精神を勉強して取り入れられたということです。ところが日本ではそれを昨年に強行採決で変えました。給食費滞納の問題のように、日本国民は問題が起きると本質を見極めると論議よりも、いつもなにか政府がやりたかったことを「この際のきっかけ」にすり替えられているような気がする。こんな感想を持つのは私だけでしょうか。このブログが考えるきっかけになれば幸いと思います。 K子  

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«学力テストは子どものためになる?